2016年9月11日日曜日

検索

まあそんなわけで、トマトの画像をスマホで見ながらスケッチしている人を後ろから見ていた。トマト、の特徴が、イメージとして思い浮かばないのであれば、スマホで検索、というのも便利な手段ではある。こういう人は、イメージを脳みそにスタック出来ない人なのかもしれないなあ、と密かに納得する。
例えば近所の農家の無人販売所にお野菜を買いに行く。スーパーと違って、野菜の品種などいちいち書いていない。一袋100円、という貯金箱が置いてあるだけである。丸くて赤いのが「トマト」だと思っているので、買って帰ったら家人にそれは「赤カブ」だと怒られる。えーカブなの−、と叫んだら、「違うよ、リンゴだよ」と別の家人に言われる。いやいやそれはレッドオニオン。販売所でスマホで検索しなかったのが失敗の元、ではなく、それ以前だろう。
例えば秋になって、子どもと一緒に山に行く。ハイキング、山登り、あるいはキャンピングカーで一泊、である。実りの秋、なので、木の実やキノコもある。おいしそう、と子どもが手を出す木の実が有毒ではないか、おいしそうなので今日の晩ご飯のおつゆにいれようとむしったキノコが「ワライダケ」ではないのか、とふと考えたときに、その場で「スマホで検索」するのだろうか。圏外であれば検索も出来ない。キノコ図鑑をメモリに突っ込んで持っていくのだろうか。おつゆが出来た頃に通信が出来て、「有毒」だと知ったらどうするのだろうか。うーむ。キノコ狩りも無人販売所も大変である。 

2016年9月10日土曜日

記憶

トマトを画像検索していた人は、日頃トマトなど「記憶」していないのだろう。赤くて丸いもの、くらいにしか記憶していないので、「トマト」らしく見える「特徴」を把握していないわけだ。
その一方で、「ほんものそっくり」に描くことに、価値がありすぎはしないか、とも思う。多少デッサンが狂っていても、思い入れや情熱は絵に込められてしまうからだ。「ほんものそっくり」なのが「いい絵」なのだろうか。だとすれば、モディリアーニや奈良美智の絵は「よろしくない」のだろうか。
「本物そっくり」なのが「いい」ということが、「一般論」なんだと言われれば、それまでなのかもしれないが。


翻って、「本物そっくり」なのが「いい」ということは、どこで刷り込まれたのだろうか。つい先日新聞で読んだ「デジタル教科書導入」についての識者の文章を思い出す。東京23区内の「教委指導室長」の文章である。彼はタブレット導入賛成派で、その理由をいくつか書いているのだが、そのうちのひとつにこんな文章があった。「例えば、美術の時間に校庭の植物を撮影して、教室で画像を拡大しながらスケッチさせることもできる。」。
スマホでトマト検索と同程度である。校庭の植物を「視る」のではなく、「撮影」である。それは「美術」ではないし、理科の「観察」日記、にもならない。ちょっと悲しかった。

2016年9月9日金曜日

写実的

ここ1−2年で増えてきたのは、実技講座で何かを描くときに、スマホで画像を検索して、それを見ながら描くことだ。
カメラオブスクーラやカメラルシーダの時代から、それは穴の向こうを「描く」ための補助道具、であったわけだ。
しかし、一昔前の美術学生だと、ひたすら「デッサン」という人生修行のような課題をこなすことを要求された。写真があるのに、である。大学に入って、デッサンの授業で言われたことは「ひたすら視る」ことだった。モチーフの裏に回ったり、触ってみたりすることもやった。人体デッサンは、生身のモデルさんである。絵を描く、ということは、そこにあるものを「映す」ことでも「写す」ことでもない。
大学に民俗学の研究室があるのだが、そこの収集資料は写真ではなく、ドローイングで整理されているものがある。写真よりも、ドローイングの方がよく分かるものがあるのだそうだ。

小さな画用紙に「トマト」を描くために、スマホをすりすりしている参加者を見た。写真通りの「トマト」を描きたいのだろうが、記憶の中の「トマト」でもいいのになあ、と思う。それは価値観の違いかもしれないが、「ほんものそっくり」なのが良いことなのかどうか、わからない。 

2016年9月8日木曜日

記録

そんなことを思い出すのは、美術館の普及活動で参加者や親御さんがスマホで撮影しているのをよく見るようになったからだ。
公開講座などではスマホで録音、講師の書いたホワイトボードを撮影、スライドショーを録画撮影、とスマホフル活用である。あまりにも堂々と記録する参加者がいたので、しばらく前から「講座中の録音録画はご遠慮」願うことになった。スマホの録音開始と同時に居眠りする参加者を見るようになったからである。
まあ学生と一緒で、話を聞きながら調べ物、という人もいるわけだから使用そのものは禁止することはないかなあ、と思っていた。しかし、やはり学生さんと一緒で、端末を一生懸命いじっているのは、誰かとLINEでチャット中だからである。学生さんとは違って、いいトシした大人である。
私の教室でも、録音録画黒板撮影も学生さんはよくおやりになる。しかし、そういう学生さんが「出来が良い」とは限らないことは、不思議ではある。そこまでやっているにもかかわらず、板書した注意事項を口頭でも伝えている羽目になる。二度手間である。

ボタンを押すことで安心してしまうのだろうが、記録する作業と記憶する作業とは、質が違う。 

2016年9月7日水曜日

ブルーライト

同居人が小学校に勤務していたので、運動会とか学芸会を手伝いに行くことが何度かあった。10年以上前の話だが、その頃からお母さんはホームビデオ、お父さんは一眼レフ、という両親カメラマン状態の客席をよく見た。デジタル機材になってきてからは、デジタル一眼レフとデジタルビデオカメラである。
よく学芸会で怖じ気づく子どもに、「客席は真っ暗で何も見えないから大丈夫」という妙な励ましをする教師がいたりするものだが、今日では客席は真っ暗ではなく、ぼーっと青い光に充ち満ちている。液晶モニターである。だから誰がどこに座っているのか、舞台からは丸見え。お母さんがあそこで眉間に6本ほどしわを寄せているのが見えるのである。しわを寄せているのは、台詞につっかえる息子にではなく、構えているカメラのピントがなかなか上手く合わないからであることは、舞台の息子には知る由もない。ほぼ全員がモニターを見るために顔を伏せていて、舞台を凝視している客はほとんどいない。妙な風景である。
今日だとそれがスマホになっている。日本のスマホは盗撮防止のためか、シャッター音がする。しゃかーしゃかー、とミラーもドライブもないのに機械風の音が響く。構え方は左手でスマホをホールドするスタイルになったのだが、顔は前を向いているが見ているのはやっぱりモニター画面。

行事が終わると、舞台ではなくモニターを凝視していてお疲れの親が会場から出てくる。 

2016年9月6日火曜日

TPO

無意識ちゃんが増えてきたのはいつごろからなのだろうか。
ペットボトルはここ10年あまりのことで、やはり「熱中症予防」や「ペットボトル容器」が浸透してきたこともあるのだろう。ただ、TPOが分からない、というのも、ここ十数年のことなのではないかと思ったりもする。
展示室で携帯電話のベルが鳴るので、展示室ではマナーモードに、という貼り紙を出した。
マナーモードにしても、展示室で電話に応対してしまう人がいたので、展示室では携帯電話を使用しないで、という貼り紙を出した。
スマホがぼちぼちと普及し始めた頃は、展示室で作品ではなく、スマホに見入っている人を見かけるようになった。ここ数年は、作品を背景に「自撮り」までする中学生が出現した。写真機にバッテンマークの「撮影禁止マーク」が貼ってあるのだが、中学生にとって「カメラで撮影」と「スマホで自撮り」とは、ベツモノであるらしい。

メディアやガジェットの開発と普及、利用の方法は、世間様の方がどうしても早いものである。 

2016年9月5日月曜日

無意識

夏は暑い。ニュースを見ていると「熱中症情報」というのが出てくる。予報士かアナウンサーが必ず「水分補給をお忘れなく」と一言添える。
こういった「健康情報」もブームがあったり、学術的研究の裏付けがあったりして、いろいろと変わってくる。子どもの頃は「運動中の水分補給はなるべくしない」のが原則だったので、今思えば熱中症でふらふらになったことが何度かあった。
最近の子どもが学校に行く持ち物は、教科書ノート水筒、である。学校の水道の生水は飲まないらしい。過保護なんだか、ご苦労なんだか。
「水分補給をお忘れなく」と言うのが浸透しているのか、駅だろうが電車だろうが信号待ちだろうが本屋の中だろうが、ペットボトルを鞄から取り出して蓋を開けてぐいーっと飲む様子をよく見かける。子どもの頃は「公共の場所では飲み食いしない」のが原則だったので、我慢しないのが今時、というものなのだろう。

様子を見ているとごくごく自然に鞄から別途ボトルを取り出してお飲みになっている。慣れ親しんでいるので、無意識にやっているのだろう。のどかわいたなー、ペットボトルぐびー、である。その間に、ここはどこか、飲んでも良いところか、という逡巡はない。だから、夏に美術館で作業をしていると、何気なしに作品の前で、ペットボトルぐびー、な人を見かけてしまう。慌てて監視員が注意はするのだが、「あっ」くらいで、あまり悪びれた様子もない。だから本当に「無意識」なんだなあと思う。 

2016年9月4日日曜日

空調

毎年夏は美術館での催事記録撮影というお仕事である。担当の催事は夏休みに併せた企画になるので、必然的に、学校の授業が終了するとほぼ同時に、美術館の作業が始まり、そちらが終わると同時に、学校の授業が始まる。夏休みはどうだったか、と言えば、美術館の作業中、である。ほぼ20年以上もこういったペースなので、学生の顔を見ずに済むことが「夏休み」であると思うようにしている。課題を考えなくても良いし、評価もしなくても良いので、ある意味では単純に作業に集中できる、というものである。
とは言え、真夏の作業ではある。外は炎天下、美術館内は空調が効いている、のだが、人間様用に調整しているわけではない。当然だが、外気温との差は、「クールビズ」仕様ではない。館内にずーっといればかなり冷えてくる。時々、外に「暖まりに」出なくてはならない。
一方自宅作業は、西南向きの部屋、屋根裏なしなので、暑い。こちらは全館冷暖房完備ではないので、出入りのたびに温度差が気になる。冬と違ってやはり能率が悪い。振り返ると悪すぎる。夏は仕事しない方が健全だと思わざるを得ない。
さてそこで、自宅のエアコンも15年選手なので、今年はいっちょはりこんで買い換えてみた。

電気製品の進歩は甚だしく、なかなか冷えなかったのが、一気に「快適」モードである。…でもやっぱり能率はいまいち上がらない。夏に弱い体質だと、自分に言い訳している今日この頃である。 

2016年9月1日木曜日

back to school

基本的に8月は「夏休み」なので、学生さんとも学校ともあまり接点がなく、したがってネタもあまり拾えない。それに乗じてこちらも「夏休み」を決め込んで、のんびり過ごそうと思ってはいた。いたのだが、それなりに雑用というのは生じるので、あっという間に日が過ぎた。これだから「トシをとると月日の過ぎるのは早い」といわれるのだろう。あれもやらなくてはと思ってはいるのだが、つい後回しにしてしまうことが積み重なっていく。いかんいかん。
そうやって9月に入ってしまったので、そろそろ学校に戻る用意もしなければ、と着手し始める。
欧米だと、6月が終業式、国によってはえらくながーい夏休みがある。今やインターネットで情報収集の時代なので、あちらのショッピング系のサイトは「Back to School」セールが山盛りである。2ヶ月以上の休みであれば、学校に戻るのも憂鬱、せめてセールでモチベーション上げねば。
翻って国内事情を見ると、9月1日が全国的に始業式かと思っていたのに、最近はそれもずいぶん様変わりしている。もちろん、北海道と沖縄では夏と冬の休みの期間が違うので、北の方では8月下旬に始業式、というのが報道されていたりした。いまどきだと、2学期制の公立校も多くて、8月25日に始業式、というところもあるようだ。10年ほど前に姪の通っていた公立小学校もその方式で、なぜか9月末に5日ほどの「秋休み」があった。
私が数十年前に通っていた中学校も2学期制だったので、前期の終業式は9月末、つまり期末試験が9月にある。ということは、夏休みは「定期試験対策」も兼ねるわけで、日頃の行いをよーく振り返って反省して、教科書丸暗記、などという荒技もやってみたこともある。 
何はともあれ、台風と一緒に夏は過ぎ、夏休みもおしまいである。