そうやって、先手をとってあれこれ教え込む、というのは良いことなのかと、ときどき考えることがある。
カッターとかはさみなどの文房具でも、痛い思いをして使い方を覚える子どももいる。ただし、危険な電動工具などを扱う場合はかなり厳密に操作を教え、禁止事項を遵守させないと、大怪我をするが。
私が教えているのは、映像制作の分野だが、個人制作を実習の課題にしている。基本的に自分の身の回りの物を利用して、身の丈でつくる、という作業である。
まあ写真とか映像とかという表現ジャンルでは、よっぽどのことがなければ「命に関わる」ような作業はない、のが普通である。機械は壊れるかもしれないが、本人ごと壊れることはあまりない。
授業のスタンスとしては、つくってみる、失敗してみる、学んでいく、という方向をとっている。先手を取り、手を取り足を取り教えても、経験値になっていかないからだ。
手取り足取り方式では、当面見栄えの良い作品はできるかもしれない。しかし、将来自主制作や卒業制作をするときには、教員がべったりと四六時中つきあうわけではない。一人になったときにどうやって問題解決するか、ということは、「失敗した数」がものを言うことがある。だから、失敗した後は、なぜまずかったのかを考え、解決策を考えておくこと、できればリベンジにチャレンジすることを指導する。
ただ、ここ数年気になっているのは、つくるまえに学生がいろいろと聞きにくることだ。以前の参考作品を見たい、あるいは、どうすれば評価の高い作品になるのか、といったことである。
たかが課題なので、せいぜい好きにすればいいのに、と思うのだが、当の学生は真剣である。「良いもの」は自分にとって「良い」のではなく、採点者にとって「良い」ものである。あるいは、作品制作において失敗をしてはならない、と刷り込まれているようだ。作品をつくるために、もがいたりあがいたりすることは、彼らの辞書にはない。最短距離で高評価を得ることが目的のようだ。
「学ぶ」ということが、違う意味になっているような気がする。
大人が、失敗をさせないためにいろいろと先手で教え込むことは、当面は良いことのように見えるが、実は当面だけ良いのであり、将来的にも良い、というわけではないような気がする。
0 件のコメント:
コメントを投稿